tomodati
「友達どのくらい居るの??」
この問いには永久に悩まさせれる。
様々ある人間関係の中で一番あいまいで一番憂きに思い体を壊しがちなつながりだと思う。
例えば、連絡先を交換したら友達という私の意見。
何かしらの連絡事項があるのだから交換したのであってそこに「友達」関係が100%生まれるとは限らないし交換しただけで一生連絡がこないことだってあり得る。多分日本で一番使われているであろう(多分)LINE、これの登録人数が200人くらいの人に聞きたい、何人が友達ですか?中には公式アカウントなりがあると思う。150人くらい?180人くらい?200人と言ったやつは嘘だろ、正直に言え200人居るんだからその時点で誇れると思うゾ。LINEの検索機能って何の為にあるんだろうって思っているときは良かったよ、気が付いた瞬間絶望したね一生使わないと思う。LINEて連絡ツールだと思っているんだけどもう違うのかな、私分からない。
ということで『連絡先を交換したら友達』はハーバード大学の研究結果によって違うということが確立されました。次の論です
例えば、頻繁に会っている、もしくは連絡を取っているという私の意見
「会う」という行為は双方の都合が合った結果生まれる行為であってそこに何かが生まれるのは「会った」先にあるもので頻繁に会ったからと言って『友達』というには酷く不完全な希ガス。では連絡を取るというのはそこに一方通行の思いが生じる可能性が無きにしも非ずというかなり悲しい、空しい、おどろおどろしい結果が0%になった瞬間受け入れられると思う。無理な話だ、いったい誰が他人気持ちを理解できる日が来る。人の痛みも、悲しみも、「無」という感情も理解できないのに。出来ていたらもっとこの世はひとにやさしくできるはずなのに。
ということで『頻繁に会う、連絡を取る』はトロント大学の研究結果によって違うということが確立されました。次の論です。
例えば、同じ釜の飯を食えば友達という私の意見。
100歩譲って、炊飯器。最近の炊飯器はとても性能が良いらしい。飯以外にもおかずが炊ける、パンができる、お菓子が作れる。米を炊くにもふっくらだとかもっちりだとか副詞が沢山ある。米が立つとか輝くとか比喩も沢山ある。日本人が無くなったら困るランキング毎年上位に食い込む存在、そいつが私は大好きだ、友と言ってもいい。
結果米が私の友達だ。
これはリライト決定記事だな。
環状=感情=勘定
皆さま初めまして。
「環状屋さん」のオーナーなおやと申します。
オーナーなんて恥ずかしい言い回しと感じるかもしれないですがこれからはこれで通させていただきます。
このブログは私のお店です。
私の感情のお店です。
私の感情を提供していきます。
どうぞ食べていってください。
さて、記念すべき一番目のお話ですが
私は二年ほど前にブログをやっていました。
『腐れ生娘の損得感情』
という名前のブログです。
今でも名前は気に入っています。
内容はまぁ、変なことをしていましたね
自分の好きなように、自分の身に起きたこと、周りで起きたこと、ちょっとブロガーっぽい記事を書いたり。本当にいろいろなことに手を出して毎日のように書いていました。とても楽しかったです。
その楽しかったブログから一年前私は逃げました。
沢山の人と出会い、助けていただき、毎日楽しかった「私のブログ」から逃げました。
なぜ逃げたんだろう、なぜ捨ててしまったのだろう
何が辛かったのかも分からないほど私は疲労していたんだ
何かしら記事を書かないと、毎日記事を書くと宣言してしまった、書くことがない、書くことがない、書かないと、書かないと、見てくれている人が楽しいと思う記事を書かないと...
この世の誰が私の面白くもない記事を待っているんだ?
私の記事が生み出されて一体何が変わるんだ?
私が書くこれは何なんだ?
自分で自分を追い込むことで良いものが生み出される
なんて思っていた
箱を開けたら
『逃げ』だった
涙も出なかった、心を占める感情は安堵だった
私の体にうごめき蔓延っていたナニかは消えた
と同時に築き上げた世界もきえた、その時は気づけなかった。
鬼ごっこをして追いかけられるのが当たり前なのは子どもの世界
大人になって『鬼ごっこ』をしても追いかけられる確率なんて低すぎて目も当てられない、そもそも相手が鬼なのかも分からないのに馬鹿みたいに一人で逃げて、そもそも鬼が居るのかも分からないのに一人で怯えて、そもそも逃げなくてよかったのに。
ターーーーーーーーーーーーイム!!!!!!!!
って大きい声で言えたら変わったのかな。
たった一年で戻ってきた私を笑わないでね。